総  括


 シュガー・ミュージアム、ビショップ・ミュージアム、アリゾナ・メモリアルで「後述する」と言っていたページである。

 はっきり言って、相当、個人的な感想であるし、旅行の情報でも無いので、興味のない方は全く、おもしろくないと思うので、そのつもりで読んで下さい。(まあ、読まなくてもいいんですが・・・)


 ビショップ・ミュージアムで日本語ツアーの女性が説明してくれた内容をざくっと説明すると、その昔、ロコの人達は島で繁栄をしていて、最盛期には30万人もいた。しかし、外交が発達するにつれ、いろいろな人が島に入ってくるようになり、それとともに病気も入ってきて、免疫のない島の人々は5万人まで減ったという。
 また、サトウキビ産業が盛んになるにつれ、辛い作業の労働力不足が出てきた。そして、その労働不足を解消するため、移民を受け入れたのだが、その一番最初に、日本へ移民の要請に来たそうだ。そう、そんな昔からハワイと日本はつながっていたのだ。

 シュガー・ミュージアムでは移民してきた日本人の展示が結構ある。サトウキビ畑で働く女性の格好は、まさに日本の農民であった。
 そして、ハワイが豊かになり、様々な業種が増えて行くにつれ、きついサトウキビ畑の農作業から労働者が離れていくのを防ぐために、会社が結婚を勧め、家族で住める住宅を用意し、労働組合とともに職場環境の改善に努めた。勤勉な日本人気質が多分にサトウキビ産業の力になった事であろう。きっと、アメリカ人も、そこで働く日本人も仲が良かったに違いない。シュガー・ミュージアムで見た広いサトウキビ畑や工場の写真には、無理矢理働かされているような悲惨な様子は無かった。展示されていた、日本から持っていたであろう炊事道具など、ハワイで日本式の生活をしていた様子がうかがわれる。厳しい労働の中、笑顔が見えるような、そんな気にさえなる。現実はどうだったか知らないが・・・。


 僕はハワイに関して、かなり誤解をしていたようだ。日本人観光客が特別に多く、海外に来た気がしないと言われるハワイ。どっちかというと嫌いな部類だったかも知れない。しかし、こんなに深い関わりがあったとは知らなかった。ほとんど日本語が通用すると聞くだけで、金持ち日本人をカモにする観光地といった印象があった。(韓国で日本語をしゃべる人を見た時は全く違う印象を持ったが。)
 まあ、けして日本だけと関わりが深かったわけでは無いが。ビショップ・ミュージアムの3階には日本だけではなく、韓国や中国の民族衣装を着た人形が並んでいた。

 しかし、ハワイはその場所のせいでロコの人達の意志とは無関係に利用されていく。太平洋のど真ん中、ぽっかり浮いた絶海の孤島。常夏の気候はある事に非常に都合がいい。
 息子が5歳の時、沖縄に行った。その時、平和ガイドの大野さんが言われていた事、「沖縄は亜熱帯の気候のため、一年中、戦闘機が飛ぶのに都合がいい。」そう、軍事基地である。

 あちこちの国が干渉してくる中、最終的にアメリカの一つの州になったハワイ。太平洋のど真ん中に位置するハワイは、軍事作戦上、非常に便利であり、また、重要な拠点となった。そう、戦後、地球の裏側、沖縄がアメリカ国外にある最大の米軍基地になったように。
 おかげでハワイはとんでもない目にあう羽目になる。

 望まれて移民をし、力を合わせサトウキビ産業を発展させてきた日本人、そしてその子ども達。遠いアジアで日本と中国が戦争をし、アメリカが石油の輸出禁止などの経済制裁を加えている事を知っていても、アメリカは日本と戦争をしていないのである。たとえ、目の前に軍事基地があったとしても、今の平和な暮らしが一転する等とは夢にも思っていなかったろう。もう一度、言うが、望まれて、この地に来たのだ。

 そして、運命のあの日、1941年12月8日が来る。その日も平和に始まったであろう。

 アリゾナ・メモリアルで見たもので印象に残ったもの。そのひとつに「優勝カップ」がある。アメリカの海軍は、各艦にいろいろなチームがあり、このアリゾナにブラスバンドがあったのだ。そして、海軍の大会だったか、地域の大会だったか忘れたが、準決勝で勝ち、あとは優勝をかけての決勝の日を待っていた。そして、その日を待たずして、あの日、魚雷が命中し、積んでいた爆薬に引火し、わずか9分で沈没してしまった。
 その後、この大会の参加者の意向で、その年の優勝カップを、アリゾナのブラスバンドチームに贈ったのだ。

 その他にも、死んでしまった人達に、日常の、ごく普通の生活があった事がわかる資料が展示されている。

 しかし、このアリゾナ・メモリアルでの展示は、事実を淡々と展示してある。日本憎し、といった雰囲気もない。広島の原爆記念館等のように、悲惨さは無い。攻撃がどのように行われたか、アメリカ海軍はどのように被害を受けたのか、そして、今まで僕が殆ど聞いたことがない事実、どのようにパール・ハーバーを復活させたのか、が説明されている。

 よく、アメリカは日本がパール・ハーバーを攻撃する事を知っていたが、黙って攻撃をさせたという話を聞く。しかし、僕はこの話は事実なのだろうかといつも思っていたが、この、アリゾナ・メモリアルに来るとよけいにそう思う。その昔、旧ソ連が、日本が戦争に負けるのが確定してから火事場泥棒のように北方4島を占領した、という話がまことしやかに語られたように、この話もまことしやかにされているのではないだろうか。(この話は、旧ソ連が参戦してくるはるか以前、ヤルタ会談で合意していたものであった。)
 研究も何もしていないので、どっちが事実かわかりませんが。
 しかし、僕個人の思いとしては、アメリカはやっぱり知らなかったのではなかろうかと思う。

 そして、この後、「望まれて移民をしてきて」「サトウキビ産業の発展のために身を粉にして働き」「ハワイの為に力をあわせて」「アメリカ人達と仲良く暮らしていた」日系移民、その子ども達に取っては地獄の日々が始まるのである。そう、たまたま、ハワイが太平洋のど真ん中にあったというだけで・・・・。

 印象的だった言葉が二つ。ひとつは「日本政府は軍部の暴走を止めることが出来ず・・」という言葉。日本が悪かったのではなく、当時の日本軍部が暴走したのだという事を伝えていること。もうひとつは映画の中でブッシュ大統領(この人も兵隊として日本と戦っていたらしい)の演説の紹介があるが、その中の一言(その前後の言葉には賛同しにくい部分もありますが)、「私はいかなる憎しみも日本に対して持っていない。」という言葉だ。

 確かに当時の「リメンバー・パール・ハーバー!」は、日本が行った、卑怯な奇襲攻撃を忘れるな!であったろうが、今でもアリゾナ・メモリアルでは、「リメンバー・パール・ハーバー!」という言葉が響いているように思う。それは、「戦争ではこんな事がおこるのですよ。それを忘れないで。」と。そして、そのメモリアルの横には、今でもアメリカの海軍基地があるのである。

 このアリゾナ・メモリアルは、戦争に対して否定も肯定もしていない。ただ、あの日にあった事実と、その後の復興が展示されている。日本のように「戦争は悪いことだ」とも言っていないし、「この兵士達は立派に戦死したんだ」とたたえている訳でもない。また、メモリアルへの船の運航は海軍が行っている。日本より遙かに身近な所に軍隊がある。

 だからこそ、自分で考えなくてはならない。軍隊の持つ意味、戦争の持つ意味を。


 青い空と青い海。スキューバーダイビングのインストラクター、エディさんが話していた、「ハワイの人は、ほんと、働きませんよ。やるときにはやりますけどね。」という、おおらかな生活。絶海の孤島(孤島じゃないぞというかも知れませんが、僕から見ればあの小さな島の集まりは孤島と一緒です)だったが為にその昔はどこからも影響を受けず、しかし、その場所が故に軍事上の拠点になってしまったハワイ。その歴史の一端に触れることが出来たことは、僕のハワイ観に大きな影響を与えた。そして、軍隊や戦争に関しても新たに考える機会になった。


 次にハワイに行く機会があれば、今度はゆっくりと海につかってみようかなと思っている。



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